トクベツ
特別になりたい
普通は嫌だ
自分は普通とは違う
意識してる時点でてめぇは有象無象だよ
かっこつけてる場合か、そんなことしてたら普通にすらなれなくなる。中途半端者に生きる場所は無いんだ
外から自分を見る
他人が求める「自分」
自分が思う「自分」
世界から求められている「自分」
一緒とは限らない
外から自分を見ることで「本当に自分が求められていること」が少しは見える
横顔が両側から見えてやっと、正面からの顔がわかるってこと
道徳のじかん
小学生のとき、あったよね
俺はあの時間が好きで仕方なかったんだよね。正解のない問題にぶつかって、みんながどんな答えを導き出すのか、いつもいつも楽しみで仕方なかった。
そこで「本音と建前」を小学生ながらに学ぶんだよ。普通にワクワクする。
こう思うけど、こう言ったら怒られるってなんとなく察するようになってくるんだよ。
でもね
俺がおもうに、それじゃ思考は育たない。
思うこと、ぶつけさせてから教育が始まる。生徒に察させてはいけない。一度思ったことを書き連ねる練習をして、それをまとめる練習をして、やっと建前の練習ができる。
それを一気に詰め込んでも小学生はわからん
それ以前に、教員が道徳者であるかは甚だ疑問ではあるが
別れ≠分かれ≒繋がり
そろそろ卒業シーズンですね
みなさん
というか一部だとは思うんだけど、卒業に対してやたら寂しがる人いるよね
ほんとああいうの見る度に胡散臭くて笑ってしまうんだよね。
もちろん相手がアフリカにボランティアでいくとか、普通に会えなくなる可能性があるのは悲しいし別れ惜しむべきだけど、それでもそこまで騒ぎ立てる必要はないよね
死に別れじゃあるまいし、大体、ほとんどの奴はすぐ会える距離にいるじゃんって
名古屋くらいならいくらでも会えるし、高度に成長したネットワーク技術を使えばもう物理的な距離なんてそこまで問題にならないんじゃないかな
だからこそぼくはお別れとかそういうのあんまりしんみりとというか時間かけてやらないんだけど
それによって不満そうにされるのはなんか嫌だわ
人との本当の付き合いって分かれてからなんだよ多分。少なくともぼくはそうおもう。分かれてからも連絡とかしてさ、会う仲ならそりゃ別れ惜しむべき相手だろうが、そうでもないやつにそんなんしてもうわべだけの馴れ合いだろ
相手から引き出す能力
「はい、そうです」と言わせてしまう質問を提供する人間はまずつまらない
だからこそ自分は話したくない状態にあるときにこの方法を使うのだが。
人間は長く話すとき必ず「はい」が存在しない
例えば「出身はどこですか」という質問。
大抵は「~県です」→「〇〇が有名ですよね」→「はいそうです」
となる。
そこを「~県です」→「何が有名なんですか?」→話の展開
「はい」が存在し、話が展開し得る唯一のパターンとして、こちらに大きな情報量がある場合がある。
「出身は~県ですよね?(ではないですか?)」→「はい、なぜご存じで?」→展開
となる。
県固有の特徴的な苗字や知り合いがいるなど「情報量が多い」場合に限ってこれは許される。
こういった楽しい話の構造や展開を是非とも全人類に学んでほしいところではある
調査
「君は僕をどう思う?」と仕事の先輩やチーフ的存在に聞かれたとする
僕は自然とああそういうことなんだな、と感じてしまう。
「あなたは自分を最低だと思いますか?」
なんの反感も買ってないと思い普通に働いている人は大体「思わない」
ならまずこの調査の意味ってなんですかね。
人間には十人十色の思考回路や行動、宗教や人種の違いなどを持たされて生まれてくる。